tatsumitatsu

ロードバイクとキャンプ中心のブログです。

聖徳太子だけじゃない!太子町ポタリング

2021年7月31日

朝7時出発。太陽はまだ低く、長い影を作るも、すでにジリジリとくる暑さ。近鉄上ノ太子駅に1時間弱で到着。ここから歴史探訪スタート。

地理的には羽曳野市になるが、まずは河内源氏氏神である壷井八幡宮から。つか、河内源氏ってなんだ?

f:id:tatsumitatsu:20210731155205j:image

 

調べると、河内源氏源頼信、頼義、義家の三代のことで、源氏のルーツはまさにここにあるそうである(もっと遡れるがここではあえて言い切りたい)。源氏というと関東のイメージが強いがルーツはここ!(くどい) 頼信が河内守に任じられたところから歴史は始まる。河内源氏は前九年、後三年の役で活躍。その後、保元の乱を経て、平治の乱で没落し、頼朝が鎌倉幕府を開くことで復活する。頼朝はれっきとした河内源氏の子孫で、また足利尊氏徳川家康も源氏の末裔を称したことから、日本の歴史の大半を占める武士政権のルーツはここ羽曳野といって過言ではない。と、いま初めて知った。勉強になった。

参考:壷井八幡宮

 

壷井八幡宮は二代目の頼義による創建。境内の樹齢千年といわれる楠が大阪みどりの百選になっている。
f:id:tatsumitatsu:20210731212923j:image

そして、この河内源氏三代の墓が近くにあるので、回ることにする。


f:id:tatsumitatsu:20210731213032j:image頼義の墓

f:id:tatsumitatsu:20210731213258j:image義家の墓

さらにその先に、初代頼信の墓があるのだが、襲いかかる蚊の大群が恐ろしく断念した。蚊ごときと思われるかもしれないが、1秒でも静止すると全身襲いかかられるようなプレッシャーであった。義家の墓の撮影を一瞬で済ませ、猛ダッシュで退散した。

f:id:tatsumitatsu:20210731214310j:image
執拗な蚊もロードバイクのスピードにはかなわないようである。落ち着いて周囲を見渡すと、とても美しい風景だ。

そして、今回のポタリングの最大の目的、太子町にある五右衛門石に向かう。石川五右衛門がここに腰かけてキセルで一服ついた石だそうだ。とても眉唾である。が、司馬遼太郎ファンで同氏の忍者作品を愛する身として、この石は無視できない。


f:id:tatsumitatsu:20210731223317j:image五右衛門石を発見。何の標識もなく、ただそこにある。
話は脱線するが、石川五右衛門伊賀忍者の出身であるという説がある。そもそも伊賀忍者とは何者か? 忍者は上忍と下忍に分かれる。伊賀における上忍は、地元の郷士であり支配階層である。初代服部半蔵や百々地三太夫などがそうである。下忍は上忍の奴隷である。苦しい修行の果てに忍術を覚え、全国の戦国大名の間で汚れ仕事を遂行する。その報酬はすべて上忍の懐に入る。ということで、誰が好んで下忍などになるだろうか? つまり下忍は人さらい同然に、周辺の貧乏な農家などから調達される訳である。その調達先として河内は有望なエリアで、石川五右衛門の出身もおそらくその辺であろうと。石川の姓は、河内に流れる石川に関係するのではないかと。信憑性はないが小説の題材としては面白い。そして、太子町に五右衛門石があるのもしごく納得なのである。


f:id:tatsumitatsu:20210731224743j:image
さて、誰もいないことをいいことに、私も腰かけて一服する(笑) 失礼しました。

さて、本日最大のミッションは完了したが、太子町の見所は本来これじゃない。その町名の通り、聖徳太子をはじめ、その時代を壮絶に生きた英霊が眠る地だ。これを巡らないと。

f:id:tatsumitatsu:20210731225748j:image推古天皇

f:id:tatsumitatsu:20210731225920j:image荘厳である。

f:id:tatsumitatsu:20210731230004j:image二子塚古墳

f:id:tatsumitatsu:20210731230340j:image登る。盗掘と発掘のせいか少し荒れている。推古天皇は、実子の竹田皇子とともに、本当はこちらに埋葬されていたのでは、という説もある。

f:id:tatsumitatsu:20210731230734j:image発見。妙に涼しげだ。

f:id:tatsumitatsu:20210731230719j:imageこの長い階段の先に…

f:id:tatsumitatsu:20210731231022j:image小野妹子の墓。これぞパワースポット、といいたいところだが、蚊の襲来にあい早々に退散(涙)

道の駅 近つ飛鳥の里太子に至り、二度訪れて閉まっていた、竹内街道歴史資料館にようやく入る。

f:id:tatsumitatsu:20210801000700j:image

もっと長くいたかったが、昼までに帰宅しないといけないので、駆け足で見学(泣) とりあえず、日本最古の「官道」といわれる所以が理解できた。

参考:竹内街道歴史資料館(太子町HP)

 

また脱線するが、そもそもなぜこの辺りを「近つ飛鳥」といい、奈良の方を「遠つ飛鳥」というのか。その答えは竹内街道にある、と思う。同街道は、難波と大和飛鳥を結ぶ道であった。ということは、大陸から人と文化が流入してくるルートであったということであり、山をひと越えする手前のこの地でまず渡来人の集落ができたと考えられる(というか記録に残っている)。渡来人とは主に朝鮮人であり、朝鮮語で安住の地をアスクとかイスクというらしい。これが転じて「飛鳥」になったと。一つの説である。そしてここを流れる川も、もとはアスク川、イスク川と呼ばれたと想像される。転じて「石川」である。そして街道はさらに東に伸びる。大陸文化の行き着く終焉地としてのアスク。大和にできたもう一つの飛鳥である。こうして、二つの飛鳥が存在し、難波から近い方を「近つ飛鳥」、遠い方を「遠つ飛鳥」と呼ぶようになったと。その後、遠つ飛鳥では推古天皇聖徳太子による飛鳥文化が花開く。当然渡来人の影響が大である。また聖徳太子の命を受けた小野妹子の遣隋使は、隋に対して大変挑戦的な使節であった。「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す」というやつである。大陸と対等にやっていくことを宣言したからには、交流のメインルートである竹内街道は、当然官道として整備しないと格好がつかんわな、ということかと理解している。

 

f:id:tatsumitatsu:20210801011328j:image孝徳天皇陵。資料館のすぐ近くにある。

最後に聖徳太子のお墓がある叡福寺へ。

f:id:tatsumitatsu:20210801012516j:imageやはり規模が大きい。f:id:tatsumitatsu:20210801012653j:image一度、織田信長に焼かれたので、古代の建築は残っていない。にも関わらず立派な伽藍である。残っていれば国宝級であったことだろう。

f:id:tatsumitatsu:20210801012925j:image聖徳太子御廟。学校の教科書に載るほどの偉大な足跡に、付け加える言葉もない。この時代、権力争いが殺伐としている中で、聖徳太子だけがあまりにも清浄な存在である。不思議だ。でもそれ以上は言わない。少なくとも御廟の前でそんなことを思うと、自分の小汚なさだけが再確認されてしまう。素直に頭を垂れる。

参考:叡福寺

 

推古天皇のお墓は雄大かつ荘厳な古墳。小野妹子の墓はワイルドなパワースポット。そして聖徳太子のお墓は仏教普及の祖にふさわしい静謐な佇まい。三者三様で趣深い。濃いポタリングであった。

12時帰宅。走行距離 約50km。何とか熱中症は免れた。

この後、洗濯機が壊れたので、新品を買いに電気屋へGO。そして晩御飯の支度である。休む暇もない。