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回顧録 ~記憶に残る読書

一つのフレーズだけが、強く記憶に焼き付いている作品というのがある。例えば、レミゼラブルの「石さえも腐っているかのようだった(パリの下水道に描写)」とか、赤毛のアンの「アイスクリームって荘厳なものね」とか、ジョニーは戦場へ行ったの「死んでいるんだよミスター」とか。頭の中に電気が走り、言葉の力というものを感じさせられる。

f:id:tatsumitatsu:20210803133438j:image海外文学の場合は、訳者の力もある。

 

 

ストーリーは面白いに越したことはない。しかし、読書を回顧した時に心に残っている書というのは(まあフレーズばかりか内容すらも忘れているのが大半だが)こういう電撃にさらされまくった作品である。

 

その筆頭はレミゼラブルである。凄まじい作品だ。ジャン・バルジャンが主役の物語部は大きな感動を生むが、この作品がそれだけであったなら、ただの大河ドラマ的小説で終わっただろう。作家ユゴーの時代、社会、人間を批評するうんちくパートの切れ味が凄まじい。例えば、警察を「犬」などと表現する“隠語”について、ストーリーそっちのけで膨大な考察が展開される。その他、下水道やパリの子どもなど、目の付け所が意表を突く。繰り返すが、これらを題材に小説を仕立てる作家は数多くいる。しかしユゴーのような文章、一文一文が電撃めいた信念のある文章を書く人はいない。ユゴーすごい。あと翻訳者もすごい。

 

日本の作家では泉鏡花が好きであった。この人の文章は同時代の他の作家と比べても明らかに文語調の要素が高く、古くさく見える。だがその古っぽさが、かえって独特のリズム、品の良さ、美しさを醸し出す。内容は幻想文学(ファンタジー)が多いのも希有な存在である。そもそも架空の世界を文学で扱うのは難しいことだと思う。舞台設定、未知の法則(魔法)、道具、生き物、敵味方の関係性などに凝り出すと、消費的なジュブナイル作品に陥ってしまう。純文学として時代を越えようと思うと、天性の文章センスが必要になると思う。宮沢賢治しかりである。

脱線した。泉鏡花作品で記憶になぜか残っているのは…自分を振った男を呪い殺そうとお百度参りをする女。それを見とがめた神主が説教を垂れる。そんな邪な願掛けをしてはいかん!神主の正論にぐうの音もでない女。そこにお堂がバーンと開き姫神登場。あなたの気持ちすごくわかる!願いを叶えて上げましょう。女は大願成就。横の神主は口あんぐり。これがとても品の良い文章で綴られる(笑) 「多神教」という作品。昔に読んだ話なので、私の脳内でストーリーがちょっと変わってるかも。

 

とにかく文章なのだ。私は、前述の通りファンタジーも好きで、エンデの「果てしない物語」などは、まあ娯楽的な面白さはないが、色のある死グラオーグラマーン(だったか?)など、行間から空想世界を幻視させる文章に電撃をくらい、記憶に残る書となっている。

ところで、「ハリーポッター 賢者の石」が発売された時、書店でファンタジーの傑作と宣伝され、装丁も立派なものだから、私はエンデの作品のような感動を期待して読んだ。が、期待を大きく裏切られた。ハリーをいじめている子が、ちょっと報いを受けて、それをハリーがざまあみろと思った、とか、人間の心象をリアルに書いているのかどうか知らないが、なんて卑小な作品だと思い、ネットで愚痴ったことがあった。そこに「あなたの意見には賛同できない」という反論があり、まあ要約すると、ハリーポッターを楽しく読んで感動した者もいるんだ、バカにするなと。ごもっともと落ち込んだことがあった。

私は、文学とはかくあるべしという古い考え方があって、それ以外は一段低く見てしまう。悪癖である。娯楽作品は娯楽作品として大いに楽しんでいるのにだ。

しかし、自分にとってかけがえのない書となると、そうした選別が働くのはいたしかたないであろう。高尚なものをありがたがるおバカな日本人なのだ。