価値観(世間を見る目)が変わった一冊といえばこれである。「マックスウェルの悪魔」。50年前に発行された、物理学の素人向け読み物である。
物理学の根底を支える理論の一つは、確率というあやふやなものだと。であればなんだ、というと、火にかけたヤカンの水が凍りつく、猿がデタラメにワープロのキーボードをたたくとシェイクスピアの作品が出来上がる、そんな現象も確率はゼロではないと。ただ、その確率がとんでもなく低いために、一般的には「あり得ない」と言い切って良いわけである。しかし確率はゼロではない。
この可能性の間隙をぬって、確率0.000000(無限の数値)0000001%の現象を見事に現出せしめる存在。偉大な物理学者マックスウェルが夢想した存在がマックスウェルの悪魔である。
とてもユニークな発想だ。文系脳では決してできない発想である。なぜなら、こういった考え方の根底には、物理学の理論があるからである。この本の作者である、故都筑卓司氏は物理学者でありながら、非凡な文学センスで、文系脳の私に物理学の理論の一端をおもしろく理解させてくれた。
この書で主に解説されるのはエントロピー(熱力学の第二法則)の概念である。
熱力学の第一法則は、おなじみのエネルギー保存則。自然界において物事はさまざまに変化するが、エネルギーは常に一定である、という理論である。もし世の中を統べる法則が第一法則だけであれば、火にかけたヤカンが凍りついても何ら問題はない。だがヤカンの水は実際には温まり、沸騰し、やがて気体になって消えていく。逆方向はない。当たり前である。この「当たり前」を統べるのが、熱力学の第二法則、熱は高い方から低い方へ移っていく、という理論だ。この理論があるために、ヤカンは絶対に凍ることはないのである。
ところで、そもそも熱とは何か。熱とは、ミクロの視点で考えると、原子や分子が動いたり振動したりしている現象である。つまり熱湯は、それを構成する水分子が激しく動いている状態であり、逆に冷水は水分子が比較的緩やかに動いているわけである。では熱湯と冷水を合わせるとどうなるか。答え、熱くも冷たくもないぬるま湯ができる。ミクロの視点では、第二法則によって熱は高い方から低い方へ、つまり激しく動く水分子と緩やかに動く水分子が混ざるということである。その逆はない。これが世を統べる法則だからである。
ここで話は最初に戻る。この絶対不変の真理と思える第二法則だが、実態は数多くの分子が絶えず動き回っているわけで、万に一つ(無限大に一つ)の確率で、動きの速い分子と遅い分子がきっかり分かれる瞬間があるかもしれない。いや、ないとは言い切れないのである。これが第二法則の穴である。この穴をかいくぐって、万に一つの確率を有意に現出させるのが、マックスウェルの悪魔である。
マックスウェルの悪魔がいれば、熱、すなわちエネルギーを確保することは容易い。薪やガソリンといった燃料を燃やさなくても、分子の動きを統べるだけで高いエネルギーが取り出せる。第二法則が確率を根拠にしているがゆえにこうした夢想が出てくるのである。
しかし、現実の世界ではマックスウェルの悪魔は存在が確認されていない(このような夢の科学技術は発明されていない)。なので、第二法則(熱は混ざる)は厳然と効果を発揮し、人間は資源を燃やし自然を汚して、高い熱を生み出しそこからエネルギーを確保し続けないといけないのである。
ここで、恐るべき未来予測が生まれてくる。まず第一法則があるために、新たなエネルギーというものはこの宇宙には存在しない。そして第二法則がくつがえせないと、行きつくところは、あらゆるものは混ざり平準化され、宇宙は熱的終焉を迎えるということである。まあ、そこまで人類は生き延びれないと思うので、それはよいのだが。
さて、この知識があると、SF小説を読む楽しさが一気に倍加する。この熱的、エントロピー的終焉に真っ向から立ち向かうハードSF作品を読んだことがある。ソウヤーという作家のタイトルは忘れたが、発想がぶっ飛んでいて面白かった。未来の人類が、この熱的終焉を阻止するために、恒星をどんどん過去にタイムスリップさせて、つまり宇宙の総エネルギー量を増やそうと頑張るのだ。ただ、この(未来から見て)過去の宇宙に住む人類にとっては、何もない宇宙空間に突然恒星が現れるわけで、何だこれは?とあわてふためく、シリアス(笑)なミステリーSFであった。
そろそろ何の話をしているのか、わからなくなってきた。あらゆるものは混ざるという熱力学の第二法則、エントロピーの法則は、情報分野にも飛び火して今も活用されているのだが、著者(都筑氏)はそちらの分野にも言及している。つまり、近い将来、情報、すなわち人々の考え方、価値観、イデオロギーといったものは、すべて混ざりあい、無意味となり、何が正しくて何が間違っているのか、混沌として判断できなくなる。白が黒になり、黒が白くなる。ついこの間までは恥態と思われていた格好まで、すぐにファッションとなり、さながら人々は百鬼夜行のような体をなすであろう、と。
50年前の書である。著者は50年後の今の世の中を物理学から予言し、見事に的中させているのである。これには舌を巻いた。この本でしかご縁のない故人であるが、私が尊敬してやまない人である。