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回顧録 ~『歎異抄』入門

歎異抄は、浄土真宗の宗祖、親鸞の思想を弟子、唯円がまとめたもの。それを哲学者の故梅原猛氏が素人向けの入門書としてまとめたものが本書だ。
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「善人なおもて往生を遂ぐ、況んや悪人をや」という悪人正機説は有名だが、歎異抄において真に驚かされるのは、こうしたパラドックス的理論の根底にある親鸞の思想、考え方にある。

 

念仏を唱えれば、善人ですら極楽へ行ける。悪人はなおさらだ。

というのは、どういうことだろうか。

一般的に善人とは、他人に親切にしたり、泥棒や人殺しなどをしない、いわゆる良い人のことだ。悪人はその逆だ。しかし、親鸞はこうした人間の善悪の定義など何の意味もないと言う。

 

親鸞は弟子の唯円に問う。「人を千人殺せば極楽往生できるとするなら、どうする?」

唯円は当然、そんなことはできません、と答える。

「なぜだ?極楽往生できるんだぞ」と畳み掛ける親鸞

唯円たじたじ。

 

親鸞によれば、人を(殺したくても)殺せないのは、ただその人が、前世から人を殺す因縁(業)を積んでいないだけのことだと。逆に、殺したくないと思っていても殺してしまう人だっている(例えば戦争など)。そんな人は、人を殺してしまう因縁を前世で積んでいただけのことであると。

つまり、人を殺せないと言う唯円は、別に善人でも何でもない。人を殺す縁がないだけのことだと。

 

親鸞の前には、一般的な善悪の道徳観念は霧散する。こうしたまやかしの善行を積んで、自分は清廉潔白だと言い張る善人(当時の仏教界には多かったに違いない)を、親鸞は偽善者であると毛嫌いしている。人は生ある限り何らかの悪を働いている。これを救うのが念仏であり、阿弥陀仏である。悪人正機の所以である。

 

では、善とはなにか? 親鸞にとっては、ただ阿弥陀仏にすがり念仏を唱えること、それだけが善である。この点は、私のような不信心者にとっては一生わからないところであるので棚上げする。

 

私が注目するのは、(念仏という易行以外の)あらゆる人間の営みは煩悩のなせる業だから、善やら悪やら賢しげに語るな、身の程を知れ、という親鸞の人間観である。そして親鸞が自分こそが煩悩に振り回される凡夫、念仏を唱えて阿弥陀仏にすがらなければ、地獄行き決定のクズだと本心から思っていることである。

 

「念仏を唱えても一向に嬉しくない」

「念仏を唱えれば本当に極楽に行けるのか? そんなことわからない」

と語る親鸞。まさに煩悩まみれの凡夫のつぶやき。しかし、かえって人の心に染み入ってくるのはなぜだろうか。

ソクラテスの「無知の知」にも通じる言葉であるが、親鸞はより生々しい。一宗教の始祖が赤裸々に己をさらす時、虚言巧みに己を偉く見せようと躍起になっている人々、そしてそれを是とする社会の価値観は、裸の王様よろしく化けの皮が剥がされるのである。

歎異抄を読んで感じたこと。それは、親鸞は私の心の「代弁者」であるということだ。新たな価値観を植え付けられたのではなく、私が何となく後ろめたさを感じつつ持っている価値観を裏付けられた、とでもいおうか。

 

私は、物事に白黒つけるのが嫌いである。他の人たちはよく色んなことをスパッと断定し見切りをつけれるな、と感心する。

とくにニュース番組。今が旬のコロナワクチンなどが好例だ。根拠もないのに本当に自信満々で薦めてくるな、この人たち。そして、ワクチンパスポート…皆さん良い学歴とキャリアをお持ちなのに、そんなに全肯定して大丈夫?

しかし世間は、断定する人に注目や信頼が集まる。いや、世の中を渡っていくには、自分の信念などそっちのけのパフォーマンスが必要ということか。。。

 

バカバカしい、と思ってしまう。親鸞も当時の知識人を見てそう思っていたに違いない。そうして、こうしたパフォーマンスは、メディアの中限定の話ではない。身近な生活の中でも、偽善や断定のパフォーマンスは多分に求められる。それができない自分は、割といろいろな局面で、人付き合いの悪い人間、パッとしない人間として、損な役回りを演じてきたと思う。

しかしもっと情けないのは、私は自分一人が不幸の主人公のように妄想してしまう癖があることだ。私だけが特別ではない。世の多くの人もきっと多かれ少なかれ同じことを思っているに違いないのだ。ああ情けない。しかし、こんなネガティブな思考ばかりで人生を過ごしてもくだらない。

歎異抄における親鸞は、直弟子が書いているだけに、自己を全否定していながら、すこぶる爽やかで満ち足りている、ように私には思える。

煩悩にさいなまれながら、偽善も嫉妬もなく、一見すると謙虚という言葉がぴったりくるように思えるが、親鸞アイデンティティはそんな奥ゆかしいものではないと思う。信仰に支えられた、不動の何かが一本通っているのだ。信仰のない私は、それに代わる何ものかでもって、その揺るがない何かを得ようと努力している。

 

歎異抄は、真宗が曲解され「異」となることを「歎」いて、唯円が書いた。私は、欺瞞に満ちた世の中の「異」に染まらず、かつ「歎」きもせずに、自分の価値観を貫き通したいと考えている。しかしながら、周囲の知人、家族、同僚からは、ますます変人のように思われるのは避けられないのである(笑)