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心に残った音楽を書き留める。
宮沢賢治が創造したイーハトーブの世界を、冨田勲が交響曲にし、ポーカロイドの初音ミクにソリストを担当させている。
音楽の核にあるのは、当然、理想郷であるイーハトーブ、そして宮沢賢治だ。
前提として宮沢賢治を知らないと、この作品に共感するのは難しいかもしれないが、少し知ってるくらいで十分だと思う。私がそうだから。
私が感動したのは、私が抱く宮沢賢治とイーハトーブのイメージを損なうことなく、いやむしろ強化されるくらいに、冨田勲と初音ミクが素敵な音楽へと昇華してくれたことだ。
そもそも初音ミクの歌など聴いたことがなかったし、これからも漁って聴くことはないだろう。ただイーハトーブを、宮沢賢治の作品の一節を歌う彼女の声は、天女の声かと思えるほど透き通ったもので、私の心を打った。
ケンタウルス 露を降らせ、という原作(銀河鉄道の夜)では単なるお祭りのハヤシ言葉くらいに思っていた一節を、彼女の声で聞いたとき、眼前に満天の星の輝きが浮かび上がり…そして広大な宇宙のなかで、長くも短くもある生をただ全うするしかない人間というはかない存在への愛おしさがこみ上げてくるのだ。普段は人間という存在に絶望しているこの私がだ(笑)
雨ニモマケズは、元が一言一句無駄な言葉がない宝石のような詩である。これを初音ミクではないが、男声の合唱団によってゆったりとぼくとつな調子で歌い上げられるのを聞いていると、宮沢賢治という人間がこの世にいてくれて良かったとしみじみ感じる。
脱線するが、この詩で一番の深みを感じるのは、喧嘩や訴訟があればつまらないからやめろといい、という一節である。喧嘩はわかる。しかし訴訟はどうか。これを、つまらないと断定する宮沢賢治が、私は好きである。
宮沢賢治の思想は、現在の米中主体のグローバリズムの激流の中では、粉微塵に吹き飛ばされる。皆からデクノボーと呼ばれて生きていくのは辛いことだ。しかし、そういう人に、私はなりたいのである。日々の営みの中でこの信条が挫けそうになったとき、冨田勲の音楽と初音ミクの声は、宮沢賢治の思想の穢れのなさを再確認させてくれる。褒められもせず、苦にもされない人生を歩もうと一人ひっそりと決意するのである。
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