tatsumitatsu

ロードバイクとキャンプ中心のブログです。

日本のオリジン 〜石上神宮、大神神社、山辺の道

2021年11月3日

文化の日奈良県石上神宮大神神社へ行く。上さんと車で。

 

まずは石上神宮天理市)から。

f:id:tatsumitatsu:20211104153342j:image

大鳥居。

 

f:id:tatsumitatsu:20211104153424j:image

美しい参道。

f:id:tatsumitatsu:20211104195651j:image

鶏の楽園。

f:id:tatsumitatsu:20211104195726j:image

烏骨鶏いた!

野性味あふれる御神鶏が放し飼い…失礼、自由に境内を闊歩している。

コケコッコー!と勇ましい。その鳴き声は、岩戸を開いて天照大神を誘い、闇を解き放ったのだ。どうにもワクワクする。神域とはいわゆる清浄な所だ。鶏たちのざわめきはやはり汚れがなく、これも神域の一つの形なんだなあと。しみじみ楽しい。

f:id:tatsumitatsu:20211104153446j:image
祭神は布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)、すなわち布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)だ。この剣は、日本神話ではメチャクチャ大活躍する(詳細は省く)。で、石上神宮は軍事を司っていた物部氏に由来する神社である。

だいたい神社仏閣とは、当時の軍事拠点を兼ねているものだが、石上神宮はその色彩がより濃厚だ。七支刀という非常に挑発的な形をした刀(国宝)も収められており、古代の武の側面をシンボリックに表出する。まあつまるところ中二病マインドがそそられるのである。

f:id:tatsumitatsu:20211106102232j:image

七支刀がデザインされたお守り。上さんが気に入って付けている。

 

f:id:tatsumitatsu:20211104213450j:image

境内全体は年季を帯びている。古木がそびえ、岩は苔むし、そしてポッカリと口を開ける山辺の道。ここを歩け、原初の日本を感じよ、と呼びかけてくる。

歩きたい誘惑にかられるも、今はダメだ。次があるから。ということで、車で大神神社へ。

 

あっという間に大神神社桜井市)に到着。
f:id:tatsumitatsu:20211104215520j:image

拝殿。大神神社御神体三輪山なので本殿はない。つまりこの拝殿が建築物の主役である。写真は斜めから撮ってしまったが、眺めるのであれぱ真正面からが良い。左右対称の造形は、これが人の技かと思うほど壮麗で正確無比である。

それにしても人が多い。白状すると、もうゲンナリである。早々に境内を通り抜け、山辺の道へ脱出する(笑)

山辺の道。私が大神神社を好む理由はここにある。伊勢よりも出雲よりも熊野よりも。ここにこそ日本のオリジンを感じる空気がたゆっている。

三輪山の麓に沿う古道は程よいアップダウンがあり、昔ながらの里山風景が展開される。有名観光地によくある厚化粧ではなく、時の流れに任せた野ざらし感があって、万葉の世界へとトリップさせてくれる。

 

大神神社から20分ほど歩くと摂社の檜原神社に着く。
f:id:tatsumitatsu:20211104230004j:image

三ツ鳥居だけ。御神体はやはり三輪山である。古代の自然崇拝の形を、大神神社以上にわかりやすく見せてくれる。このシンプルさがとにかくカッコいい。

同神社は元伊勢とも呼ばれ、天照大神伊勢神宮に遷る前は、ここに祀られていたそうだ。さらに遡って言えば、同神をここに祀ったのは、第10代 崇神天皇である。疫病を鎮めるために、それまで宮中に祀っていた天照大神を解き放った訳だ。

 

欠史八代という言葉がある。初代 神武天皇の後、第2代から第9代までの天皇は詳細な歴史的記録がなく、実在が怪しまれているそうだ。一転、第10代 崇神天皇の活躍は記紀にきらびやかである。すなわち三輪山を拠点とし、先の檜原神社をはじめ、大物主神を祀る大神神社を創建したのもそうである。神武天皇も神話的存在であると考えると、リアルな日本の歴史は三輪山から始まったと言える。

檜原神社の三ツ鳥居と向かい合うと、以上のような想念がムラムラと起こり、頭を垂れてしまうのである。

 

もう一つ書いておきたいのは、檜原神社のすぐ隣にある井寺池。その畔に川端康成揮毫の倭建命の歌碑がある。

f:id:tatsumitatsu:20211104230030j:image

大和は 國のまほろ

たたなづく 青がき

山ごもれる 大和し 美 (うるわ)し

 

熊襲蝦夷の制圧に日本各地を転戦し武功を上げるも、父の景行天皇に疎まれ、故郷の大和(三輪の地)に帰ること能わず、死の際に詠まれた望郷の歌である。

この歌に対面すると、私の記憶の中にだけ存在する懐かしく温かい愛郷の念がわき起こる。大和は、私の故郷に置き換わり、そこがまほろばとなる。

川端康成はこの地を訪れ、建碑の場所を自身でここに定めながら、その数カ月後、揮毫できぬままこの世を去った。この碑に刻まれた文字は、ノーベル文学賞受賞時の講演原稿から収集したものだそうである。遺された人々の何としてもこの碑を建てようという執念が感じられる。

大和を愛する多くの魂が、山辺の道にたゆっている。人嫌いの私だが、思いを同じくする故人と心を通わすことは、好きである。横に上さんがいるのだが(笑)

 

しんみりしてもいけないので、もう一つ。

この倭健命の歌碑のすぐ隣に、天智天皇の歌碑がある。

 

香具山は 畝傍ををしと

耳梨と 相争ひき

神代より かくにあるらし

古へも 然(しか)にあれこそ

うつせみも 妻を 争ふらしき

 

古の神の世だって男女の三角関係はあったのだから、今もやっぱり妻を取り合うものなんだ、という意味だが、これを天智天皇あんたが歌うか!と笑ってしまう。

弟の天武天皇額田王を争った当事者が、臆面もなくこれを歌うのは、ちょっとズレてるとしか言いようがない。いや、そうじゃないか。よくぞ遺してくださったというべきか。こんなにも私を愉しませてくれるのだから。

倭健命の心の洗われるような歌碑の横に、こんなムラムラとする俗な歌碑が置かれているところに、我々現代人にも親しみやすい、飾らない日本人の心の原風景を感じるのである。

 

心が豊かになって、大神神社の駐車場へ戻る。日没が近づき、空が印象的な色に染まる。来たときは無駄にデカいなと思っていた大鳥居だが、シルエットとなって町と一体化すると、その威容に改めて感嘆する。

f:id:tatsumitatsu:20211104230056j:image

心憎い夕日の演出。最後まで心に訴えてくる三輪の地。日本のオリジン。また必ず来るであろう。