tatsumitatsu

ロードバイクとキャンプ中心のブログです。

妙国寺と土佐十一烈士墓

2022年2月5日(土)

高校生の子どものクロスバイク GIANT Escape R Dropで近場をポタリング

f:id:tatsumitatsu:20220205153328j:image妙国寺。自宅から徒歩でも10分だから、もはやポタリングともいえない距離。つまりネタである(笑)

 

f:id:tatsumitatsu:20220205153658j:image立派な伽藍である。

f:id:tatsumitatsu:20220205153726j:imageちらほらと植わっているのはソテツだろうか。中に入る度胸がないので、大ソテツは見てません。

しかし、織田信長を激怒させたソテツのエピソードは面白い。信長をコケにして、堺をヨイショする地元ネタだ。多少の真実は含まれているのだろうが、創作極まれりである、と思う。まあ、伝承伝説の類は、“盛りすぎ”くらいが丁度よい。

f:id:tatsumitatsu:20220205155451j:image向かいの宝珠院横には、堺事件で切腹した、土佐十一烈士墓の碑がある。森鴎外大岡昇平が小説に書いているそうだが、私が知っているのは、司馬遼太郎の作品からである。

大政奉還がなされ、明治維新がなった直後の1868年、堺に上陸したフランス兵と警備にあたっていた土佐藩士が衝突し、フランス兵が多数死傷。責任を追及された土佐藩士11名が妙国寺境内で切腹した事件だ。悲話として伝わるが、この事件はもっと根深い歴史的事実を秘めている。

徳川政権を滅ぼした原動力は、尊王攘夷であったこと。ところが王政復古の大号令をもってスタートした明治新政府は、如実な開国主義であったこと。この政策の180度の大転換は、末端の大勢の志士には伝わっていなかったこと。

尊皇攘夷など夢物語であることを薩長の上層はよくわかっていながら、部下にはそれを隠し、革命を成功させたのだ。

攘夷の熱冷めやらぬ、堺港を守る土佐藩士は、開国を掲げる政府からすれば邪魔者以外の何者でもない。この堺事件が、フランスとの国際問題となったとき、政府がとれる手段は部下の切り捨てであった。

堺港を守った土佐藩士は、手柄を立てたと思っていたら、主君の山内容堂が出てきて厚く弔ってやるから死ねと(←この辺は想像)。意味不明だったことであろう。

このあと畳みかけるように起こる神風連の乱西南戦争などの旧武士の反乱も、明治政府の詐欺的なやり口の犠牲者であり、堺事件と根っこのところは同じである。

一方で明治政府の立場になると、当時の日本は、オオカミ(諸外国列強)に囲まれた赤子のような存在である。しかも守るべき日本国民からも白い目で見られつつ…よくぞ侵略されずに乗り越えたものである(ここには天皇の存在が大きい。日本は特殊な国であることが改めて認識される)。

 

堺事件は、日本の歴史の中では泡沫のような小さな事件だが、その含むところはあまりに大きい。ゆえに、たくさんの歴史学者、作家、趣味人の中に留まり続けるのであろう。

f:id:tatsumitatsu:20220205164909j:image妙国寺の周囲にはたくさんの碑がある。左 とさのさむらいはらきりのはか。

f:id:tatsumitatsu:20220205165331j:image左 大阪、右 そてつ(笑)

 

なお土佐十一烈士墓はすぐ隣の幼稚園の中にある。凄惨な歴史は時代とともにソフィスティケートされ、日常の中に溶け込まれるのである。